姫路城が作られた理由。
それは何なのか?
「姫路城の存在理由」は、時代により変わっていきます。
本記事では、
・最初に姫路城が構築されたワケ
・「姫路城の原型」が構築されたワケ
・江戸時代「現在の姫路城」の姿にに改築されたワケ
などについてお伝えいたします。
【姫路城】最初に作られた理由~南北朝時代~
姫路城が立つ姫山に、最初に「城のようなもの」が建てられたのは南北朝時代。
姫路城がある兵庫県姫路市は「播磨国」と呼ばれる交通の要所。
そこには国府も置かれていました。
この播磨全体を視界に収め統括する拠点が必要。
そこで正平元年(1346年)頃、赤松貞範は父則村が姫山に冊をめぐらして作った簡単な砦を城へと改築しました。
しかし「城」と言っても、とても簡素なものだったと推測されます。
その後播磨の国は小寺氏の勢力下へと変わります。
家臣の黒田重隆は、小寺氏の命を受けて姫山に築城を行います。
これこそが「姫路城のはじまり」とされています。
【姫路城】戦国時代~姫路城原型の誕生~
破竹の勢いで全国平定を進めていた織田信長。
家臣の豊臣秀吉に「中国地方遠征」を命じます。
中国地方の毛利氏らと一進一退の攻防を繰り広げていた秀吉。
播磨の国で、黒田官兵衛孝高と出会います。
黒田官兵衛は対毛利氏の拠点として、自らが城主であった姫路城を秀吉に譲ります。
そこで大改修が行われ、「姫路城の原型」が構築されました。
しかし、当時築かれた天守閣は今の姫路城とは違い、黒くてシンプルなものでした。
また、場所も現在の天守閣の位置より少し北方にあったとされています。
秀吉時代の天守閣は現在ありません。
しかし、「野面積み」と呼ばれる手法で作られた秀吉時代の石垣は残っています。
【姫路城】江戸時代~現在の姫路城の姿に~
関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となった家康。
こうして「江戸時代」は始まりましたが、大阪城にはまだ豊臣秀頼がいました。
つまり、「家康の天下」とはまだ言えない状況。
家康は「秀頼対策」のため、多くの城で「大阪城包囲網」を形成します。
そして、その中心的役割を姫路城に求めました。
また、江戸から遠い西国大名への牽制の意味もあり、姫路城は圧倒的に荘厳で豪華である必要がありました。
こうして「現在の姫路城」が誕生しました。
まとめ
後に「世界遺産」ともなる姫路城。
築城と2度の再構築を経て現在の姿になるわけですが、それぞれ理由があったんですね。
最後までご購読ありがとうございました。
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