【姫路城】黒田官兵衛

城主

姫路城の第14代城主黒田官兵衛。
ドラマ「軍師官兵衛」でも有名ですね。

本記事では、黒田官兵衛について
・生い立ちなどプロフィール
・軍師/築城名人としての活躍ぶり
等について記載します。

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【黒田官兵衛】姫路城との関わりなどプロフィール

・天正15年(1546年)
黒田職隆の嫡男として姫路城で生まれました。
出生時の名前は「万吉」です。

・永禄4年(1561年)
小寺政職の「近習」となります。
※「近習」(きんじゅう)とは、そば近くに仕える家来のことです。

・永禄5年(1562年)
初陣。
見事「土豪」の征伐に成功します。
この頃「小寺官兵衛」と名乗り始めます。
※「土豪」とは、「土着の小豪族」のことです。

・永禄10年(1567年)
家督を継ぎ、同時に姫路城城主となります。
また、光(てる)を正室に迎えます。
※当時姫路城は小寺氏の城でしたので、正確には「城代」です。

・永禄12年(1569年)5月
「青山・土器山の戦い」が起こり、姫路城へ兵が差し向けられます。
当時の姫路城は現在と違いとても貧弱だったため、黒田軍は野戦に打って出ます。

敵方3000人の兵力に対して、黒田軍の兵力はわずか300人。
だが黒田軍は、姫路城西(現在の姫路市青山)に伏兵を配し、敵を奇襲して撃退しました。

・永禄12年(1569年)6月
土器山に陣を張っていた黒田軍は敵の夜襲を受け窮地に。
しかし、夜明けとともに友軍の活躍で難を逃れました。

だが依然として敵軍優勢は変わらず。

それでも黒田官兵衛は「長引けば勝ち目なし」と判断。
敵への夜襲を強行しました。

虚を突かれた敵軍は敗走しました。

・天正3年(1575年)
黒田官兵衛は主君小寺氏に対して、織田信長に仕えるよう進言しました。
そして自ら使者として信長と接見。

当時信長は、毛利家討伐の為に中国地方遠征を羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に命じていました。
黒田官兵衛はその秀吉に協力することになります。

・天正5年(1577年)
秀吉は信長の命で播磨国に進駐。
この機に官兵衛は、中国地方遠征の拠点として姫路城を秀吉に譲り渡します。

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【黒田官兵衛】軍師、そして「築城名人」としての活躍

黒田官兵衛はご存じの通り、軍師として活躍しました。
また「築城名人」の一面もあります。

軍師としての活躍

有名な「秀吉三大城攻め」。
そのうち2つは、黒田官兵衛の策によるものでした。

鳥取の飢え殺し(とっとりのかつえごろし)

信長軍は中国遠征時、一度は鳥取城を手中に収めました。

しかし家臣団が城主を追い出し、毛利家家臣の吉川元春に援軍を要請。
要請に応じて名将「吉川経家」が城主となり、鳥取城は再び毛利方のものとなりました。

秀吉はこれを取り戻すべく出陣。
2万を超える大軍を率いました。

鳥取城は、久松山(きゅうしょうざん)の地形を利用して作られた山城。
難攻不落の城として知らていました。

黒田官兵衛は「兵糧攻め」を進言。
しかしそれは、単に兵糧を断つだけの単純なものではありませんでした。

まずは若狭商人を通じて米など穀物を買い占めます。

その為価格が上昇。
鳥取城内の兵糧をこっそり横流しするものが現れ、備蓄が少なくなりました。

さらに周囲の村を攻め、住人を鳥取城内に逃げ込ませました。

ただでさえ兵糧が少ない鳥取城内。
さらに周辺住人が入城したことで、兵糧の不足は深刻になりました。

また、秀吉軍は周囲に大きな堀を築きます。
さらに塀や柵も設けたので、鳥取城内に物資を運ぶことは不可能となっていました。

城の外では、食料の売買や芸人を迎えた楽曲演奏。
城内の人々の心をへし折る策を続けます。

城主吉川経家は、城内の人々の為に開城を決意。
自らは自害しました。

高松城の水攻め(たかまつじょうのみずぜめ)

中国地方遠征の際秀吉は、備中国を治めていた清水宗治に降伏を進めていました。
宗治が納める備中国の安堵も条件となっていましたが、忠義が厚い宗治はこれを拒みます。

そこで秀吉は宗治の居城「備中高松城攻め」を行います。

周囲の城を次々と攻め落とし高松城に迫った秀吉。
しかし、備中高松城は湿地に立つ平城で、周囲はぬかるんだ土壌でした。

足を取られ進軍することも困難。
3万もの軍勢で城を取り囲んだ秀吉でしたが、2度も敗北を喫しました。

また、毛利方からの多数の援軍が来るとの一報を受けた秀吉。
信長に遠宮を要請しました。

信長は援軍を送る旨返事をしました。
しかしその一方で「援軍を待たずただちに落とすべし」との厳しい命令もありました。

「水のせいで落とない城なら、水で攻めればよい」
そう考えた黒田官兵衛は、秀吉に水攻めを進言します。

進軍を阻む周囲の湿地すらも水で覆ってしまうという大胆な作戦。
高さ7メートルほど、長さ3キロメートルほどの堤防をわずか12日で完成させ、川の水を引き込みました。

備中高松城はまたたく間に「水の浮き城」となりました。

場内は大量の泥水で水浸しになり、周囲からも孤立無援になりました。
到着した毛利方の援軍もなすすべなし。

また、秀吉への援軍も察知した毛利方は和議を提案。
一度は拒否した秀吉でしたが、「ある事情」により和議を結びます。
宗治は切腹し、戦いは終わりました。

中国大返し

ところで、「ある事情」とは?

それはあの有名な「本能寺の変」。

信長を討った明智光秀は、直後に毛利方に密使を発していました。
それをとらえた秀吉は、ただちに黒田官兵衛と合議を行いました。

条件を緩和し、急ぎ毛利方と和議を結びます。
そしてすぐさま大阪へ。

世にいう「中国大返し」です。
わずか10日で大軍を移動させたこの奇策。

姫路城を中国地方遠征の前線基地としていたことも、成功の一因といえます。
黒田官兵衛の知恵により、歴史の方向性が決まったともいえるでしょう。

築城名人としての活躍

黒田官兵衛が自ら築いた城や縄張りを担当した城を見ると、まさに「築城名人」の名にふさわしいことがわかります。

黒田官兵衛の築城/縄張りは、大きく3タイプあります。

その1.自然の地形を利用

黒田官兵衛は、平地への築城時に縄張りを行っています。
その際に、官兵衛は河口部や沿岸部を好んで選んでいました。

その理由は、物資の流通やさまざまの情報が、領地の運営にとても重要だと考えていたからです。

代表的なのは広島城(広島県)、高松城(香川県)など。

また、自ら築城した中津城(大分県)もこのタイプだといえます。

しかし平地の城(いわゆる「平城」)は、山中の城などと比べ、防御は手薄です。
官兵衛は広大な堀を築き、海や川から水を引き込むことで、その弱点を補いました。

その2.城と町の一体化を意識

時代とともに城も「軍事的拠点」としての要素から「経済的要所」としての要素が強まります。

「軍事的拠点」として築かれた城は、町から離れた場所に築かれました。

しかし黒田官兵衛は、経済の中心地としての城を築く為、城下町も含めた築城計画を立てました。

「その1」で紹介した城にもこの要素がありますが、なんと言っても有名なのは「大阪城」。
官兵衛が縄張りを手掛けた豊臣時代の大阪城は、鉄壁であるとともに、町と城が一体化した巨大城郭。

さらには隠居後に息子「長政」と築城した「福岡城」(福岡県)も、やはり巨大な城郭でした。

さらに、この「福岡城」。
朝鮮で技術を習得した官兵衛のもと、見事な石垣が組まれました。

「自らの城は三、四日で落ちるが、福岡城は三十日から四十日は落ちない」
この城を見た加藤清正は、思わずこううなったといわれています。

その3.戦いに備える為だけの築城

関東初の石垣を備えた城「石垣山城」(神奈川県)は、黒田官兵衛によって築城されました。
その目的は、天下の堅城「小田原城」(神奈川県)攻め。

小田原攻めに際して、白い紙などを使用して一夜のうちに築城したように見せかけました。

この様子を見てとても驚いた小田原城中の人々。
たちまち士気を失ったそうです。

その為石垣山城は、「石垣山一夜城」「太閤一夜城」の異名を持ちます。

他にも、秀吉による朝鮮出兵が行われた際に築かれた「肥前名護屋城」(佐賀県)は、とてつもなく巨大な城。
当時、大阪城に次ぐ規模でした。

これも黒田官兵衛が中心となり築城されたものです。
しかし、秀吉の死によりその役目を終え、築城から10年も経たずに廃城となりました。

黒田官兵衛は朝鮮出兵時、複数の「陣城」(戦いの為に一時的に築く城)も築きました。

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まとめ

「稀代の軍師」として、
また、「城つくりの名人」として活躍した黒田官兵衛。

本記事では、その活躍について記述しました。

最後までご購読ありがとうございました。

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