千姫は、戦国の世を平定した豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」の正妻として有名ですね。
しかし豊臣家は、秀頼の代で千姫の父「徳川家康」によって滅ぼされました。
大阪城を出た千姫は、一時姫路城での生活を送ります。
本記事では
・なぜ、千姫は姫路城に移ったのか?
・千姫の生涯は?
・大阪での悲劇
などについてお伝えいたします。
千姫、ひとめぼれからの「姫路城」入城
大坂夏の陣の後、江戸への帰路についた千姫。
その途中で、千姫は運命的な出会いを果たします。
道中、「桑名の七里返し」で渡し船に乗った千姫は、誰もが振り返るイケメンと乗り合わせます。
その名は「本多忠刻(ただとき)」。
徳川四天王の子孫である本多家当主、本多忠政の長男。
大坂夏の陣でも活躍した若武者でした。
しかし、大坂夏の陣で家康は、千姫救出に成功した武将には千姫との結婚を認めるというお触れを出していました。
千姫を救出した武将は「坂崎直盛」。
しかし千姫は、坂崎直盛との再婚を拒否します。
家康没後の元和2年(1616年)7月、将軍秀忠は千姫の願いを聞き入れ、本多忠刻との婚儀を進めます。
坂崎直盛は「面目をつぶされた」と激怒。
桑名へと嫁ぐ一行から千姫強奪を企てます。
しかし、この企ては失敗に終わり、坂崎直盛は自害しました。
その後本多忠政は元和3年(1617年)、姫路城城主となりました。
この時長男の忠刻と千姫も、同時に姫路城へと移り住みます。
「千姫が過ごした部屋」について知る
千姫の姫路城での生活は、当初幸せに満ちていました。
元和4年(1618年)には長女「勝姫」が生まれ、翌年には長男「幸千代」が生まれます。
しかし、そんな日々も長くは続きませんでした。
「姫路城での千姫」について知る
千姫の生い立ちから政略結婚まで
千姫は、徳川秀忠とお江の長女です。
慶長2年4月11日、山城国伏見城の徳川屋敷で生まれました。
もっとも、この時代は旧暦が使用されていましたので、西暦に直すと、1597年5月26日生まれということになります。
その後江戸城へと移り、幼少期を過ごしました。
また、千姫の母「お江」は、なんとあの「織田信長」の妹「お市の方」の娘です。
慶長3年(1598年)、千姫が3歳の時に、豊臣秀吉の命により、千姫は秀吉の跡継ぎ「秀頼」と婚約します。
そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦に徳川家康が勝利します。
家康は、この秀吉の遺言を盾に、慶長8年(1603年)に秀頼と千姫の婚礼を決行。
この時、千姫はまだ7歳でした。
家康の狙いは、大阪城にいる秀頼とその母「淀殿」の動向を探ることでした。
(「淀殿」は秀吉の側室)
しかし、淀殿とお江は姉妹です。
つまり、千姫はいとこのもとに嫁いだことになります。
千姫、大阪での悲劇
このように、秀頼と千姫の結婚はいわゆる「政略結婚」。
千姫は、豊臣家への徳川家からの「人質」の側面がありました。
しかし、秀頼と千姫は仲が良く、幸せに暮らしていたようです。
千姫の成人の儀式である髪削ぎでは、なんと秀頼が千姫の髪を削ぐ役目を果たしていたそうです。
そんな幸せは、「大坂夏の陣」で終焉を迎えます。
大阪城が落城後、千姫は秀頼の除名を懇願します。
しかしそんな願いも聞き入れられず、秀頼は自害。
また、千姫の息子「国松」も処刑されました。
まとめ
数奇な運命を送った千姫。
そんな中でも、姫路城での日々は「つかの間の幸せな日々」だったのではないでしょうか。
最後までご購読ありがとうございました。
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