【5分で読める】大阪城の歴史を簡単にわかりやすく解説!

青空の下、巨大で堅牢な石垣の上にそびえ立つ現在の大阪城天守閣 エンタメ
  1. 大阪城はなぜそこに?始まりは「戦国三英傑」が奪い合った最重要拠点
  2. 豊臣秀吉が作った「初代」大坂城とは?豪華絢爛な黒い天守
  3. なぜ再建された?徳川秀忠の執念が生んだ「2代目」大阪城と白い天守
  4. 現在の大阪城は誰が作った?じつは市民の熱意で建った「3代目」
  5. トラベルライター厳選!大阪城跡の見どころと現存する歴史的建造物
  6. 【考察】トラベルライターが教える大阪城の真の価値とおすすめの歩き方
  7. まとめ
  8. よくある質問
    1. 大阪城を築いたのは誰ですか?
    2. 現在の大阪城の天守閣はいつ建てられたものですか?
    3. 「真田丸」とは何ですか?
  9. 大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が築いた巨大な出城(砦TITLE: 豊臣?徳川?現在の大阪城は誰が作ったのか。地下に眠る真実と石垣の謎を徹底解説
  10. そもそも大阪城は誰が作ったのか?戦国三英傑が絡む波乱の歴史
  11. 豊臣秀吉が築いた「初代」大坂城と豪華絢爛な黒い天守
  12. 徳川秀忠の執念が生んだ「2代目」大阪城と白い天守
  13. 実は3代目!現在の大阪城天守閣は誰が作ったのか?
  14. トラベルライター直伝!大阪城跡の歩き方と現存する見どころ
  15. 【考察】「石垣」から読み解く大阪城の真の価値と見通し
  16. まとめ
  17. よくある質問
    1. 豊臣秀吉の作った大阪城は残っていますか?
    2. 現在の大阪城の天守閣は誰が作ったのですか?
    3. 徳川家康は大阪城をどうしましたか?

大阪城を作ったのは誰か?その答えは「現在の土台と石垣は徳川秀忠、天守閣は昭和の市民、そして地下には豊臣秀吉の城が眠っている」が正解です。

実は現在私たちが目にしている大阪城は、徳川家が豊臣時代の城を地中深くに埋め立てて作り直した土台の上に、市民が寄付で建てた「3代目」の姿なのです。

この記事では、織田信長から始まり、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠という戦国三英傑が関わった大阪城の激動の歴史と、「いったい誰が作ったのか」という謎を紐解きます。

歴史研究家・城郭トラベルライターの私、石垣塁が、初心者の方にも分かりやすく「本丸から外堀へ」と順序立てて整理し、今週末にでも現地を歩きたくなるような視点で徹底解説します。

スポンサーリンク
  1. 大阪城はなぜそこに?始まりは「戦国三英傑」が奪い合った最重要拠点
  2. 豊臣秀吉が作った「初代」大坂城とは?豪華絢爛な黒い天守
  3. なぜ再建された?徳川秀忠の執念が生んだ「2代目」大阪城と白い天守
  4. 現在の大阪城は誰が作った?じつは市民の熱意で建った「3代目」
  5. トラベルライター厳選!大阪城跡の見どころと現存する歴史的建造物
  6. 【考察】トラベルライターが教える大阪城の真の価値とおすすめの歩き方
  7. まとめ
  8. よくある質問
    1. 大阪城を築いたのは誰ですか?
    2. 現在の大阪城の天守閣はいつ建てられたものですか?
    3. 「真田丸」とは何ですか?
  9. 大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が築いた巨大な出城(砦TITLE: 豊臣?徳川?現在の大阪城は誰が作ったのか。地下に眠る真実と石垣の謎を徹底解説
  10. そもそも大阪城は誰が作ったのか?戦国三英傑が絡む波乱の歴史
  11. 豊臣秀吉が築いた「初代」大坂城と豪華絢爛な黒い天守
  12. 徳川秀忠の執念が生んだ「2代目」大阪城と白い天守
  13. 実は3代目!現在の大阪城天守閣は誰が作ったのか?
  14. トラベルライター直伝!大阪城跡の歩き方と現存する見どころ
  15. 【考察】「石垣」から読み解く大阪城の真の価値と見通し
  16. まとめ
  17. よくある質問
    1. 豊臣秀吉の作った大阪城は残っていますか?
    2. 現在の大阪城の天守閣は誰が作ったのですか?
    3. 徳川家康は大阪城をどうしましたか?

大阪城はなぜそこに?始まりは「戦国三英傑」が奪い合った最重要拠点

【この章のポイント】

  • 大阪城の立地は、水害に強く物流の拠点となる「上町台地」の北端。
  • 元々は浄土真宗の巨大要塞「石山本願寺」があった場所。
  • 織田信長が11年かけて奪い取った、戦国大名垂涎の重要拠点。

現在、日本三大名城のひとつとして大阪市のランドマークとなっている大阪城。そもそも、なぜこの場所にこれほど巨大な城が築かれたのでしょうか。

その歴史をひも解くには、まずこの場所の「地形」に注目しなければなりません。

大阪城が建つ「上町台地」の北端は、淀川や大和川の逆流による水害を免れることができる、大阪市内でも稀有な高台でした。

また、当時貿易港として繁栄していた堺の河口に近く、瀬戸内海へと繋がる海上交通と物流経済の要衝でもあったのです。城郭を築くにあたって、これほど防御面と経済面の好条件が揃った土地は、日本全国を見渡してもなかなかありません。

歴史の表舞台にこの地が登場するのは、戦国時代よりも少し前の中世にさかのぼります。

明応5年(1496年)、浄土真宗本願寺の8世法主である蓮如(れんにょ)が、この地に「大坂坊舎」を建立しました。

その後、山科の本願寺が焼き討ちに遭うと、この大坂坊舎が総本山の「石山本願寺」へと変貌を遂げます。周囲には深い堀や堅固な塀、高い土塁が築かれ、巨大な要塞としての姿を整えていきました。

この難攻不落の宗教都市に目をつけたのが、天下統一を目指す織田信長です。

西国大名を討伐するための最前線基地として、信長はどうしてもこの要所を手に入れたかったのです。信長は、11世法主・顕如(けんにょ)が率いる本願寺勢力に対して幾度も激しく攻め入りました。

これが世に言う、11年にも及ぶ泥沼の戦い「石山合戦」です。

天正8年(1580年)、ついに和議が成立して本願寺勢力は退去し、信長はこの地を我が物にしました。信長はすぐさま、自らの政権の中枢を置くべく新しい大坂城の築城を開始します。

しかし皆様もご存知の通り、明智光秀の謀反による「本能寺の変」が勃発しました。信長は志半ばでこの世を去り、彼が夢見た城が完成することはなかったのです。

いわばこの場所は、戦国の覇者たちが血眼になって奪い合った、歴史の「野面積み(のづらづみ:自然石をそのまま積み上げる基礎の石垣構造)」とも言える原点の場所と言えるでしょう。


スポンサーリンク

豊臣秀吉が作った「初代」大坂城とは?豪華絢爛な黒い天守

【この章のポイント】

  • 秀吉が黒田官兵衛らを動員し、15年かけて築いた「初代大坂城」。
  • 天守は黒漆を基調とし、金箔の装飾が施された豪華絢爛な姿。
  • 「大坂夏の陣」で豊臣家とともに紅蓮の炎に包まれ焼失。

信長の死後、清洲会議を経て一時は池田恒興(いけだつねおき)に与えられた大坂の地。しかし彼が美濃へ国替えとなると、いよいよあの男が動きます。

天正11年(1583年)、信長の後継者としての地位を確立しつつあった豊臣秀吉です。

秀吉は、主君・信長が築いた安土城を凌駕する、天下に類を見ない壮大な城郭の築城を開始しました。

築城奉行に任命されたのは、築城の名手とうたわれた黒田官兵衛(くろだかんべえ)らです。毎日2〜3万人、多い時には5万人もの人員が動員されたと言われています。

まずは石山本願寺の跡地を巧みに活用して、強固な本丸が築かれました。慶長4年(1599年)にかけて約15年の歳月を費やして完成した豊臣の「初代」大坂城。それはまさに「三国無双の城」と讃えられる、度を越した豪壮なものでした。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』にも、その驚きが記されています。内部の部屋は黄金でまばゆく装飾され、種々の絵画で美しく彩られていたそうです。

また、当時の姿を伝える貴重な資料である「大坂城図屏風」(大阪城天守閣蔵)などから推測される当時の天守は、現在私たちが思い浮かべる姿とはまったく異なります。

外観の基調は、当時非常に高価だった「黒漆」でした。

その漆黒の壁面を背景にして、朝廷から使用を許された桐紋や菊紋の金色の装飾が、埋め尽くすように施されていました。屋根には金の鯱(しゃちほこ)が輝き、黒と金のコントラストが秀吉の強烈な権力と財力をこれでもかと誇示していたのです。

※画像はAIによるイメージ

秀吉はこの城の周囲に二重、三重の巨大な堀を巡らせました。近世城下町の先駆けとなる、壮大な政治・経済の中心地を作り上げたのです。

難攻不落と言われたこの城ですが、のちの「大坂冬の陣」において弱点を突かれます。

名将・真田幸村(信繁)は、父・昌幸の「大きいからこそ必ずほころびが出る」という教えを胸に秘めていました。彼は、大坂城の南側が平坦な陸続きになっているという唯一の弱点を見抜きます。

防御力を極限まで高めるために平野口に築かれた出城が、大河ドラマでも有名になった「真田丸」です。この真田丸のすさまじい奮戦により、徳川軍は大打撃を受けることになります。

しかし、歴史の非情な歯車は止まりません。

慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」の和睦条件により、二の丸や三の丸の堀は徹底的に埋め立てられてしまいます。大坂城は本丸のみがポツンと残る、無惨な裸城にされてしまったのです。

そして翌、慶長20年(1615年)5月の「大坂夏の陣」。15万5千人もの徳川軍の総攻撃を受け、ついに豊臣秀頼と母の淀殿(茶々)は自刃します。

豊臣家は滅亡し、豪華絢爛を極めた初代大坂城は紅蓮の炎に包まれてこの世から完全に姿を消しました。


スポンサーリンク

なぜ再建された?徳川秀忠の執念が生んだ「2代目」大阪城と白い天守

【この章のポイント】

  • 2代将軍・徳川秀忠が豊臣の痕跡を完全に消し去るために再建を指示。
  • 天下普請により、豊臣時代の城を地中深くに埋め立て、さらに巨大な石垣を構築。
  • 豊臣の黒い天守を否定する、真っ白な白漆喰の「2代目」天守が完成。

豊臣家が滅亡した後、大阪城の歴史は新たな、そして非常に凄まじいフェーズへと突入します。ここで主役となるのが、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)です。

大坂夏の陣の後、一時的に家康の外孫である松平忠明が城主となりますが、本格的な城の再建は元和5年(1619年)に大坂が幕府の直轄領となってから始まりました。

再建の施主は他ならぬ秀忠自身です。彼の命令は、単なる城の修復や増築ではありませんでした。

「豊臣家の痕跡をこの世から完全に抹消し、徳川の圧倒的な力を見せつけること」。これこそが、秀忠の腹の底にあった強烈な執念だったのです。

なぜ秀忠は、滅んだはずの豊臣をそこまで恐れたのでしょうか。

父・家康には、諸大名を平伏させる絶対的な軍事的カリスマ性がありました。しかし、関ヶ原の戦いに遅参したという痛恨の汚点を持つ秀忠には、父ほどの絶対的な権威がまだ備わっていませんでした。

もし豊臣家の威光が少しでも大坂に残り続けていれば、家康の死後に豊臣恩顧の大名たちが幕府に反旗を翻す危険性が十分にありました。だからこそ秀忠は、娘の千姫からの秀頼・淀殿の助命嘆願を冷徹に謝絶したと考えられています。

元和6年(1620年)、秀忠は築城の名手である藤堂高虎(とうどうたかとら)を総奉行に任命します。

新しい大阪城の設計を命じた際の指示は、「石垣の高さ、堀の深さを豊臣時代の2倍にせよ」という規格外のものでした。

ここから、西国と北陸の外様大名64家を動員した過酷な「天下普請(御手伝い普請)」が始まります。大名たちは自らの莫大な費用負担で、瀬戸内の島々から海路を使って巨大な石を運び込みました。

これは単なる土木工事ではなく、諸大名の経済力を徹底的に削ぎ落とすための策でもあります。幕府への絶対服従を、石の重さで誓わせるもうひとつの「戦(いくさ)」だったのです。

ここで特筆すべきは、徳川家が豊臣の大坂城を「完全に土砂で埋め立てた」という驚愕の事実です。

秀吉が築いた壮大な城郭と石垣の上に、数メートルから10メートルもの土を容赦なく被せました。そして、その上に全く新しい巨大な石垣を築き上げたのです。現在、私たちが大阪城で見上げている大迫力の石垣は、すべてこの徳川時代に積まれたものになります。

寛永6年(1629年)、3代将軍・徳川家光の時代に9年の歳月をかけて完成した「2代目」大阪城。

それは秀忠の指示通り、豊臣色を一切排除した威圧的な姿となりました。天守台を含めた高さは約58メートルに達し、秀吉の時代より20メートルも高くなっています。

そして何より、黒漆塗りの豊臣天守から一転し、真っ白な白漆喰(しろしっくい)の天守と櫓がそびえ立ったのです。色彩においても規模においても豊臣を完全に凌駕する、「徳川権力の象徴」がここに完成しました。


スポンサーリンク

現在の大阪城は誰が作った?じつは市民の熱意で建った「3代目」

【この章のポイント】

  • 徳川の「2代目」大阪城は落雷で焼失し、約230年間も天守がない状態だった。
  • 現在の天守閣は昭和6年(1931年)に市民の寄付で建てられた「3代目」。
  • 豊臣の外観と徳川の土台を合わせた、時代折衷のデザインが特徴。

しかし、徳川の威信をかけて築かれた2代目大阪城も、いつまでも安泰とはいきませんでした。江戸時代、大阪城は幾度もの悲劇に見舞われます。

万治3年(1660年)には火薬庫に落雷して大爆発が発生し、城内に甚大な被害をもたらしました。

さらにその5年後、寛文5年(1665年)には、あろうことか大天守の北側の鯱に落雷します。これにより、白亜の巨大天守があっけなく焼失してしまったのです。

驚くべきことに、その後230年もの長きにわたり、大阪城の天守閣が再建されることはありませんでした。徳川将軍家も、14代家茂(いえもち)が入城するまで一度も大阪城を訪れなかったほどです。

幕末の慶応3年(1868年)、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が一時的にここを居城とします。しかし、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北して江戸へ退却してしまいます。この時の動乱により、城内の建造物の多くが灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

では、現在私たちが大阪市の中心部で見上げているあの立派な天守閣は一体誰が作ったのでしょうか。

実は、現在の天守閣は昭和6年(1931年)に大阪市民の熱意で復興された「3代目」なのです。

当時の大阪市長であった関一(せきはじめ)氏が、天守閣の再建を提案しました。すると市民から熱狂的な支持を集め、目標額150万円の寄付金が瞬く間に集まったのです。

この3代目天守閣は、現代の建築技術である鉄骨鉄筋コンクリート造りで建てられました。「大坂夏の陣図屏風」などを元にして、豊臣秀吉時代の外観(黒と金)を模してデザインされています。

しかし、土台となる石垣は徳川時代のものであり、最上階の造りも徳川時代の意匠を取り入れています。いわば和洋折衷ならぬ、歴史の「時代折衷」とも呼べるユニークな構造なのです。

第二次世界大戦の激しい空襲で周囲の建物は次々と焼失し、天守閣も各所で破損しました。それでもなんとか倒壊を免れ、戦後の修復工事や平成9年(1997年)の「平成の大改修」を経ました。

そうして、現在の美しくも力強い姿を現代に保ち続けているのです。

権力者が己の威信をかけて築いた初代・2代目とは異なり、3代目は「市民の城への愛着」によって建てられました。これは非常に胸が熱くなる、歴史の大きな転換点だと言えるでしょう。


スポンサーリンク

トラベルライター厳選!大阪城跡の見どころと現存する歴史的建造物

【この章のポイント】

  • 大阪城跡は100ヘクタールの大規模な国指定特別史跡。
  • 天守閣内部は博物館として楽しめ、周囲には江戸時代から残る重要文化財が多数。
  • 日本一の高さを誇る石垣の「切込接」や「算木積」は必見。

広さ約100ヘクタール(420万平方メートル)を誇る現在の大阪城跡は、国の特別史跡に指定されています。三方を淀川などの川と天然の堀に囲まれ、その縄張りの規模は圧巻の一言です。

城郭建築や石垣を見るだけでご飯が三杯は食べられる私としては、公園内の散策はまさに歴史の宝探しです。

天守閣の内部は現在、1階から7階までが本格的な歴史博物館となっています。豊臣秀吉の生涯や大阪城の歩みを深く学べる展示が非常に充実しています。8階は地上約50メートルの展望台となっており、現代の大阪の街並みを一望できる絶景スポットです。

天守閣以外にも、広大な敷地内には江戸時代から現存する貴重な重要文化財が多数残されています。これらは明治維新の動乱や戦災を奇跡的に生き延びた、まさに歴史の生き証人です。

  • 大手門:1628年(寛永5年)建造。高麗門様式で、天明3年の雷火を逃れ建築当初の姿を残します。
  • 桜門:本丸の正門。門自体は1969年の復元ですが、周囲を囲む「枡形(ますがた)」の巨石群は徳川期のもの。特に表面積が約36畳もある巨大な「蛸石(たこいし)」は必見です。
  • 千貫櫓:1620年(元和6年)建造。現存最古の建造物の一つで、信長が「千貫払っても欲しい」と言ったことに由来します。
  • 多門櫓:1848年再建。大手口の枡形石垣の上に建ち、高さ14.7mは大阪城に現存する櫓で最大です。
  • 焔硝蔵(えんしょうぐら):1660年以降の建造。落雷爆発の教訓から、すべてを花崗岩の切石で作った唯一の石造火薬庫。
  • 金明水井戸屋形:1626年(寛永3年)建造。秀吉が水を清めるために黄金を沈めた伝説が残ります。

特に注目していただきたいのが、城郭の要である「石垣」です。大阪城の空堀や水堀を形成する石垣は、日本一の高さと総延長を誇ります。

巨大な岩石の角を四角く整形して隙間なく積む「切込接(きりこみはぎ)」。角の部分を長方形の石で交互に強固に組み上げる「算木積(さんぎづみ)」。こうした当時の最高水準の築城技術を、散策しながら間近で観察することができます。

※画像はAIによるイメージ

【考察】トラベルライターが教える大阪城の真の価値とおすすめの歩き方

ここからは、城郭トラベルライター・歴史研究家として長年全国の城を歩いてきた私、石垣塁の視点で少し深掘りさせてください。

大阪城の最大の魅力は天守閣そのものよりも、その足元を支える「石垣の地層」にあると私は考えています。

昭和34年(1959年)や昭和59年(1984年)に行われた学術的な発掘調査により、現在の地表から約10メートルも地下に、火災の痕跡が残る豊臣時代の石垣が発見されました。

つまり、秀吉が築いた初代の石垣の上に、徳川が大量の土をかぶせて埋め殺したという事実が考古学的に証明されたのです。

天下人という権力の交代劇を、これほど物理的かつダイナミックに可視化している空間が他にあるでしょうか。

同じ徳川の大事業である「江戸城」の石垣普請と比較しても、大阪城の特異性は際立ちます。江戸城は湿地帯を埋め立てて巨大な螺旋状の堀を広げていく「都市拡張」のための普請でした。

しかし大阪城は、前政権の記憶を土砂で封印し、その上に威圧的な巨大石垣をかぶせるという「政治的抹殺」の普請です。

秀忠が「豊臣の痕跡を完全に消し去る」という強烈な執念で築いた徳川の巨大石垣。それは、盤石な江戸幕府260年の太平の世を支える、見事な「切込接」のような絶対的な基礎となりました。

私は、この地下に眠る二層の石垣構造こそが、大阪城の真の歴史的価値だと評価しています。

長年、全国の城を歩いてきた私のおすすめの歩き方は、まず「南外堀」から石垣を見上げるルートです。

夕暮れ時に訪れると、計算し尽くされた「算木積」の角のシルエットが夕日に浮かび上がり、徳川の威圧感と石工たちの執念がひしひしと伝わってきます。表面がきれいに整えられた打込接や切込接の石垣のラインは、まさに歴史の重みを肌で感じられる最高の撮影スポットです。

そして今、見逃せないのが最新の公開プロジェクトです。

現在、大阪城公園内の本丸広場では「豊臣石垣公開プロジェクト」が進められています。これは、地下に眠る初代の石垣を直接見学できる地下施設の整備工事で、数年内の公開に向けて着々と準備が進んでいます。

この調査が進むことで、これまで文献でしか推測できなかった初代大坂城の全貌がさらに明らかになるでしょう。それは、戦国末期から江戸初期にかけての日本の城郭建築史そのものを書き換える可能性を秘めています。

大阪城は決して過去の遺物ではなく、現在進行形で新しい事実が掘り起こされている最前線なのです。

戦国の野望、幕府の執念、そして近代市民の情熱が何層にも積み重なった「歴史のミルフィーユ」。歴史ファンにとっても、週末の旅行先を探している方にとっても、大阪城は訪れるたびに新しい発見を与えてくれる、尽きることのない探求のフィールドです。


まとめ

本記事では、現在の大阪城は誰が作ったのかという疑問を軸に、知られざる歴史と見どころについて解説してきました。

  • 織田信長が重要性に気づき、一向一揆と激しく戦った石山本願寺の跡地であったこと。
  • 豊臣秀吉が築城した「初代」大坂城は、黒漆と金で装飾された豪華な姿で、大坂夏の陣で焼失したこと。
  • 徳川秀忠が豊臣への恐怖心から城を完全に地中に埋め立て、規模を倍増させた白い天守を持つ「2代目」を再建したこと。
  • 現在の天守閣は、昭和初期に市民の熱意と募金によって復興された「3代目」であること。

戦国三英傑それぞれの思いと因縁が激しく交錯し、現代の人々の手によって甦った大阪城。

次に現地を訪れる際は、ぜひ足元の巨大な石垣を見つめてみてください。そして、その地下深くに今も眠り続けている歴史の地層に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


よくある質問

大阪城を築いたのは誰ですか?

最初の「初代」大坂城を築いたのは豊臣秀吉です。しかし、現在の石垣や堀などの基本構造は、江戸時代に徳川秀忠が作り直した「2代目」のものです。

現在の大阪城の天守閣はいつ建てられたものですか?

昭和6年(1931年)に大阪市民の寄付で建てられた「3代目」です。豊臣時代の外観(黒と金)と徳川時代の土台を融合させたデザインになっています。

「真田丸」とは何ですか?


大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が築いた巨大な出城(砦TITLE: 豊臣?徳川?現在の大阪城は誰が作ったのか。地下に眠る真実と石垣の謎を徹底解説

「現在の大阪城は誰が作ったのか?」と聞かれて、豊臣秀吉を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。

結論から言うと、いま私たちが目にしている大阪城は、徳川家が豊臣時代の城を地中深くに埋め立てて作り直した土台の上に、昭和の市民が寄付で建てた「3代目」の姿なのです。

この記事では、織田信長から始まり、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠という戦国三英傑が関わった大阪城の激動の歴史と、現地で絶対に見ておきたい石垣の見どころを紐解きます。

歴史研究家・城郭トラベルライターである私、石垣塁が、初心者の方にも簡単にわかりやすく、そして今すぐ現地を歩きたくなるような視点で徹底解説します。


そもそも大阪城は誰が作ったのか?戦国三英傑が絡む波乱の歴史

【この章のポイント】

  • 大阪城の立地は、水害に強く物流の拠点となる「上町台地」の北端。
  • 元々は浄土真宗の巨大要塞「石山本願寺」があった場所。
  • 織田信長が11年かけて奪い取った、戦国大名垂涎の重要拠点。

現在、日本三大名城のひとつとして大阪市のランドマークとなっている大阪城。

その歴史をひも解くには、まずこの場所の「地形」に注目しなければなりません。城郭の歴史は、そのまま地形の歴史でもあります。

大阪城が建つ「上町台地」の北端は、淀川や大和川の逆流による水害を免れることができる、大阪市内唯一の高台でした。

また、当時貿易港として繁栄していた堺の河口に近く、海上交通と物流経済の要衝でもあったのです。

城郭を築くにあたって、これほど好条件の揃った土地は日本全国を見渡してもなかなかありません。いわば天然の巨大な「本丸」のような立地です。

歴史の表舞台にこの地が登場するのは、戦国時代よりも少し前の中世にさかのぼります。

明応5年(1496年)、浄土真宗本願寺の8世法主である蓮如(れんにょ)が、この地に「大坂坊舎」を建立しました。

その後、山科の本願寺が焼き討ちに遭うと、この大坂坊舎が総本山の「石山本願寺」へと変貌を遂げます。

周囲には深い堀や堅固な塀、高い土塁が築かれ、巨大な城砦としての姿を整えていきました。

この難攻不落の宗教都市に目をつけたのが、天下統一を目指す織田信長です。

西国大名を討伐するための最前線基地として、信長はどうしてもこの要所を手に入れたかったのです。

信長は、11世法主・顕如(けんにょ)が率いる本願寺勢力に対して幾度も激しく攻め入りました。

これが世に言う、11年にも及ぶ泥沼の戦い「石山合戦」です。

天正8年(1580年)、ついに和議が成立して本願寺勢力は退去し、信長はこの地を我が物にしました。

信長はすぐさま、自らの政権の中枢を置くべく新しい大坂城の築城を開始します。

しかし皆様もご存知の通り、明智光秀の謀反による「本能寺の変」が勃発しました。

信長は志半ばでこの世を去り、彼が夢見た城が完成することはなかったのです。

いわばここは、戦国の覇者たちが血眼になって奪い合った、歴史の「野面積み(のづらづみ:自然石をそのまま積み上げる基礎の石垣構造)」とも言える原点の場所と言えるでしょう。


豊臣秀吉が築いた「初代」大坂城と豪華絢爛な黒い天守

【この章のポイント】

  • 秀吉が黒田官兵衛らを動員し、15年かけて築いた「初代大坂城」。
  • 天守は黒漆を基調とし、金箔の装飾が施された豪華絢爛な姿と推測される。
  • 「大坂夏の陣」で豊臣家とともに紅蓮の炎に包まれ焼失。

信長の死後、清洲会議を経て一時は池田恒興(いけだつねおき)に与えられた大坂の地。

しかし彼が美濃へ国替えとなると、いよいよあの男が動きます。

天正11年(1583年)、信長の後継者としての地位を確立しつつあった豊臣秀吉です。

秀吉は、主君・信長が築いた安土城を凌駕する、天下に類を見ない壮大な城郭の築城を開始しました。

築城奉行に任命されたのは、築城の名手とうたわれた黒田官兵衛(くろだかんべえ)らです。

毎日2〜3万人、多い時には5万人もの人員が動員されたと言われています。

まずは石山本願寺の跡地を巧みに活用して、強固な本丸が築かれました。

慶長4年(1599年)にかけて約15年の歳月を費やして完成した豊臣の「初代」大坂城。

それはまさに「三国無双の城」と讃えられる、度を越した豪壮なものでした。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』にも、その驚きが記されています。

内部の部屋は黄金でまばゆく装飾され、種々の絵画で美しく彩られていたそうです。

当時の天守の正確な姿については設計図が残っておらず諸説ありますが、「大坂城図屏風」(大阪城天守閣蔵)などに描かれた姿から、現在私たちが思い浮かべる姿とはまったく異なっていたと推測されています。

外観の基調は、当時非常に高価だった「黒漆」でした。

その漆黒の壁面を背景にして、朝廷から使用を許された桐紋や菊紋の金色の装飾が、埋め尽くすように施されていました。

屋根には金の鯱(しゃちほこ)が輝き、黒と金のコントラストが秀吉の強烈な権力を誇示していたのです。

※画像はAIによるイメージ

秀吉はこの城の周囲に二重、三重の巨大な堀を巡らせました。

近世城下町の先駆けとなる、壮大な政治・経済の中心地を作り上げたのです。

難攻不落と言われたこの城ですが、のちの「大阪冬の陣」において弱点を突かれます。

名将・真田幸村(信繁)は、父・昌幸の「大きいからこそ必ずほころびが出る」という教えを胸に秘めていました。

彼は、大坂城の南側が陸続きになっているという唯一の弱点を見抜きます。

防御力を極限まで高めるために平屋口に築かれた出城が、大河ドラマでも有名になった「真田丸」です。

この真田丸のすさまじい奮戦により、徳川軍は大打撃を受けることになります。

しかし、歴史の非情な歯車は止まりません。

慶長19年(1614年)の「大阪冬の陣」の和睦条件により、二の丸や三の丸の堀は埋め立てられてしまいます。

大坂城は本丸のみがポツンと残る、無惨な裸城にされてしまったのです。

そして翌、慶長20年(1615年)5月の「大阪夏の陣」。

15万5千人もの徳川軍の総攻撃を受け、ついに豊臣秀頼と母の淀殿(茶々)は自刃します。

豊臣家は滅亡し、豪華絢爛を極めた初代大坂城は紅蓮の炎に包まれてこの世から姿を消しました。


徳川秀忠の執念が生んだ「2代目」大阪城と白い天守

【この章のポイント】

  • 2代将軍・徳川秀忠が豊臣の痕跡を完全に消し去るために再建を指示。
  • 天下普請により、豊臣時代の城を地中深くに埋め立て、さらに巨大な石垣を構築。
  • 豊臣の黒い天守を否定する、真っ白な白漆喰の「2代目」天守が完成。

豊臣家が滅亡した後、大阪城の歴史は新たな、そして非常に凄まじいフェーズへと突入します。

ここで主役となるのが、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)です。

大坂夏の陣の後、一時的に家康の外孫である松平忠明が城主となります。

本格的な城の再建は、元和5年(1619年)に大坂が幕府の直轄領となってから始まりました。

再建の施主は他ならぬ秀忠自身です。

秀忠の命令は、単なる城の修復や増築ではありませんでした。

「豊臣家の痕跡をこの世から完全に抹消し、徳川の圧倒的な力を見せつけること」。

これこそが、秀忠の腹の底にあった強烈な執念だったのです。

なぜ秀忠は、滅んだはずの豊臣をそこまで恐れたのでしょうか。

父・家康には、諸大名を平伏させる絶対的な軍事的カリスマ性がありました。

しかし、関ヶ原の戦いに遅参したという痛恨の汚点を持つ秀忠には、父ほどのカリスマ性がありません。

もし豊臣家の威光が少しでも大坂に残り続けていればどうなるか。

家康の死後に、豊臣恩顧の大名たちが幕府に反旗を翻す危険性が十分にありました。

だからこそ秀忠は、娘の千姫からの秀頼・淀殿の助命嘆願を冷徹に謝絶したと考えられています。

元和6年(1620年)、秀忠は築城の名手である藤堂高虎(とうどうたかとら)を総奉行に任命します。

新しい大阪城の設計を命じた際の指示は、「石垣の高さ、堀の深さを豊臣時代の2倍にせよ」という規格外のものでした。

ここから、西国と北陸の外様大名64家を動員した「天下普請(御手伝い普請)」が始まります。

大名たちは自らの莫大な費用負担で、瀬戸内の島々から海路を使って巨大な石を運び込みました。

これは単なる土木工事ではなく、諸大名の経済力を徹底的に削ぎ落とすための策でもあります。

幕府への絶対服従を石の重さで誓わせる、もうひとつの「戦(いくさ)」だったのです。

特筆すべきは、徳川家が豊臣の大坂城を「完全に土砂で埋め立てた」という驚愕の事実です。

秀吉が築いた壮大な城郭と石垣の上に、数メートルから10メートルもの土を容赦なく被せました。

そして、その上に全く新しい巨大な石垣を築き上げたのです。

現在、私たちが大阪城で見上げている大迫力の石垣は、すべてこの徳川時代に積まれたものになります。

寛永6年(1629年)、3代将軍・徳川家光の時代に9年の歳月をかけて完成した「2代目」大阪城。

それは秀忠の指示通り、豊臣色を一切排除した威圧的な姿となりました。

天守台を含めた高さは約58メートルに達し、秀吉の時代より20メートルも高くなっています。

そして何より、黒漆塗りの豊臣天守から一転し、真っ白な白漆喰(しろしっくい)の天守と櫓がそびえ立ったのです。

色彩においても規模においても豊臣を完全に凌駕する、「徳川権力の象徴」がここに完成しました。


実は3代目!現在の大阪城天守閣は誰が作ったのか?

【この章のポイント】

  • 徳川の「2代目」大阪城は落雷で焼失し、約230年間も天守がない状態だった。
  • 現在の天守閣は昭和6年(1931年)に市民の寄付で建てられた「3代目」。
  • 豊臣の外観と徳川の土台を合わせた、時代折衷のデザインが特徴。

しかし、徳川の威信をかけて築かれた2代目大阪城も、いつまでも安泰とはいきませんでした。

江戸時代、大阪城は幾度もの悲劇に見舞われます。

万治3年(1660年)には火薬庫に落雷して大爆発が発生し、城内に甚大な被害をもたらしました。

さらにその5年後、寛文5年(1665年)には、あろうことか大天守の北側の鯱に落雷します。

これにより、白亜の巨大天守があっけなく焼失してしまったのです。

驚くべきことに、その後230年もの長きにわたり、大阪城の天守閣が再建されることはありませんでした。

徳川将軍家も、14代家茂(いえもち)が入城するまで一度も大阪城を訪れなかったほどです。

幕末の慶応3年(1868年)、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が一時的にここを居城とします。

しかし、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北して江戸へ退却してしまいます。

この時の動乱により、城内の建造物の多くが灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

では、現在私たちが大阪市の中心部で見上げているあの立派な天守閣は一体誰が作ったのでしょうか。

実は、現在の天守閣は昭和6年(1931年)に市民の力によって復興された「3代目」なのです。

当時の大阪市長であった関一(せきはじめ)氏が、天守閣の再建を提案しました。

すると市民から熱狂的な支持を集め、目標額150万円(現在の価値で数百億円規模)の寄付金が瞬く間に集まったのです。

この3代目天守閣は、現代の建築技術である鉄骨鉄筋コンクリート造りで建てられました。

「大坂夏の陣図屏風」などを元にして、豊臣秀吉時代の外観(黒と金)を模してデザインされています。

しかし、土台となる石垣は徳川時代のものであり、最上階の造りも徳川時代の意匠を取り入れています。

いわば和洋折衷ならぬ、歴史の「時代折衷」とも呼べるユニークな構造なのです。

第二次世界大戦の激しい空襲で周囲の建物は次々と焼失し、天守閣も各所で破損しました。

それでもなんとか倒壊を免れ、戦後の修復工事や平成9年(1997年)の「平成の大改修」を経ました。

そうして、現在の美しくも力強い姿を現代に保ち続けているのです。

権力者が己の威信をかけて築いた初代・2代目とは異なり、3代目は「市民の城への愛着」によって建てられました。

これは非常に胸が熱くなる、歴史の大きな転換点だと言えるでしょう。


トラベルライター直伝!大阪城跡の歩き方と現存する見どころ

【この章のポイント】

  • 大阪城跡は100ヘクタールの大規模な国指定特別史跡。
  • 江戸時代から残る重要文化財が多数あり、石垣の刻印探しも楽しい。
  • 日本一の高さを誇る石垣の「切込接」や「算木積」は現地で必見。

広さ約100ヘクタール(420万平方メートル)を誇る現在の大阪城跡は、国の特別史跡に指定されています。

三方を淀川などの川と天然の堀に囲まれ、その縄張りの規模は圧巻の一言です。

城郭建築や石垣を見るだけでご飯が三杯は食べられる私としては、公園内の散策はまさに歴史の宝探しです。

天守閣の内部は現在、1階から7階までが本格的な歴史博物館となっています。

豊臣秀吉の生涯や大阪城の歩みを深く学べる展示が非常に充実しています。

8階は地上約50メートルの展望台となっており、現代の大阪の街並みを一望できる絶景スポットです。

天守閣以外にも、広大な敷地内には江戸時代から現存する貴重な重要文化財が多数残されています。

これらは明治維新の動乱や戦災を奇跡的に生き延びた、まさに歴史の生き証人です。

  • 大手門:1628年(寛永5年)建造。高麗門様式で、天明3年の雷火を逃れ建築当初の姿を残します。
  • 桜門:1969年復元ですが、周囲を囲む「枡形(ますがた)」の巨石群は徳川期のものです。
  • 千貫櫓:1620年(元和6年)建造。現存最古の建造物の一つで、信長が「千貫払っても欲しい」と言ったことに由来します。
  • 多門櫓:1848年再建。大手口の枡形石垣の上に建ち、高さ14.7mは大阪城に現存する櫓で最大です。
  • 焔硝蔵(えんしょうぐら):1660年以降の建造。落雷爆発の教訓から、すべてを花崗岩の切石で作った唯一の石造火薬庫。
  • 金明水井戸屋形:1626年(寛永3年)建造。秀吉が水を清めるために黄金を沈めた伝説が残ります。

特に城郭トラベルライターとして皆様に強くおすすめしたいのが、城の要である「石垣」の観察です。

大阪城の空堀や水堀を形成する石垣は、日本一の高さと総延長を誇ります。

巨大な岩石の角を四角く整形して隙間なく積む「切込接(きりこみはぎ)」。

角の部分を長方形の石で交互に強固に組み上げる「算木積(さんぎづみ)」。

こうした当時の最高水準の築城技術を、散策しながら間近で観察することができます。石がピタリと噛み合うその様は、まさに大名たちの威信が隙間なく組み上がった芸術品です。

※画像はAIによるイメージ

【考察】「石垣」から読み解く大阪城の真の価値と見通し

ここからは、城郭トラベルライター・歴史研究家として長年全国の城を歩いてきた私、石垣塁の視点で少し深掘りさせてください。

大阪城の最大の魅力は天守閣そのものよりも、その足元を支える「石垣の地層」にあると私は考えています。

昭和34年(1959年)や昭和59年(1984年)に行われた学術的な発掘調査。

これにより、現在の地表から約10メートルも地下に、火災の痕跡が残る豊臣時代の石垣が発見されました。

つまり、秀吉が築いた初代の石垣の上に、徳川が大量の土をかぶせて埋め殺したという事実が考古学的に証明されたのです。

天下人という権力の交代劇を、これほど物理的かつダイナミックに可視化している空間が他にあるでしょうか。

同じ徳川の大事業である「江戸城」の石垣普請と比較しても、大阪城の特異性は際立ちます。

江戸城は湿地帯を埋め立てて巨大な螺旋状の堀を広げていく「都市拡張」のための普請でした。

しかし大阪城は、前政権の記憶を土砂で封印し、その上に威圧的な巨大石垣をかぶせるという「政治的抹殺」の普請です。

秀忠が「豊臣の痕跡を完全に消し去る」という強烈な執念で築いた徳川の巨大石垣。

それは、盤石な江戸幕府260年の太平の世を支える、見事な「切込接」のような絶対的な基礎となりました。

現地を歩く際、ぜひ探していただきたい「一次情報」があります。

それは石垣の表面に彫られた「刻印」です。

大阪城の石垣には、大名たちが自分の持ってきた石を区別するために彫った家紋や記号などの刻印が多数残されています。

東外堀の周辺などを歩きながら、石の表面に丸や十字などの印を探してみてください。それは400年前の大名たちの息遣いや、過酷な天下普請のリアルな苦労を直接指先で感じられる瞬間です。

また、本丸へ入る正門である「桜門」をくぐった先にある「蛸石(たこいし)」と呼ばれる巨石も必見です。

表面積が36畳分、重さ推定108トンというこの途方もない石の壁の前に立つと、写真では伝わらない圧倒的な威圧感と、肌を刺すような冷たい花崗岩の質量を感じることができます。これこそが徳川の「見せつける権力」の象徴です。

そして現在、この大阪城の歴史は新たなステージへと突入しています。

実は今、地下に眠る豊臣時代の石垣を掘り起こして一般公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」が進められており、本丸広場において公開施設の建設が進行中です。

この施設が完成すれば、秀吉が築いた野趣あふれる石垣と、徳川が築いた整然とした巨大石垣を、ひとつの場所で同時に見比べることができるようになります。

それは、戦国末期から江戸初期にかけての日本の城郭建築史そのものを書き換える可能性を秘めています。

大阪城は決して過去の遺物ではなく、現在進行形で新しい事実が掘り起こされている最前線なのです。

戦国の野望、幕府の執念、そして近代市民の情熱が何層にも積み重なった「歴史のミルフィーユ」。

歴史ファンにとっても、週末の旅行先を探している方にとっても、大阪城は訪れるたびに新しい発見を与えてくれる、尽きることのない探求のフィールドです。


まとめ

本記事では、「大阪城は誰が作ったのか」という疑問を起点に、知られざる歴史と見どころについて解説してきました。

  • 織田信長が重要性に気づき、一向一揆と激しく戦った石山本願寺の跡地であったこと。
  • 豊臣秀吉が築城した初代大坂城は豪華な姿で、大坂夏の陣で焼失したこと。
  • 徳川秀忠が豊臣の痕跡を消し去るため、城を地中へ埋め立てて巨大な2代目大阪城を再建したこと。
  • その2代目も失われ、現在の天守閣は昭和初期に市民の熱意と募金によって復興された「3代目」であること。

戦国三英傑それぞれの思いと因縁が激しく交錯し、現代の人々の手によって甦った大阪城。

次に現地を訪れる際は、ぜひ刻印を探しながら足元の巨大な石垣を見つめてみてください。

そして、その地下深くに今も眠り続けている歴史の地層に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


よくある質問

豊臣秀吉の作った大阪城は残っていますか?

地表には一切残っていません。現在の地表から約10メートルも地下に、徳川家によって大量の土で埋め殺された当時の石垣が眠っています。現在、これを掘り起こして公開するプロジェクトが進行中です。

現在の大阪城の天守閣は誰が作ったのですか?

昭和6年(1931年)に、当時の大阪市民からの多額の寄付金をもとに建てられました。豊臣時代の外観(黒と金)と徳川時代の土台(石垣)を融合させた「3代目」の復興天守です。

徳川家康は大阪城をどうしましたか?

家康は大坂夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼし初代大坂城を焼失させました。その後、2代将軍・徳川秀忠の執念により、豊臣の城を完全に土で埋め立てて、現在の巨大な石垣を持つ2代目大阪城が築かれました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました